古代美術の装飾 2

今日は黄金マスク(前16世紀)について。


静かに眼をあけて、高貴な鼻筋、一文字に結んだ薄い唇、成して表わされています。


ちょっと一刀彫のようです。


もとより写実的ではありません。


それにもかかわらず迫力があります。


たてがみは形式化されて動物に品位を加えています。


この簡素な硬さをこえて獅子が生きているのは、この動物の本体をよく捉えているからです。


・・・といえばティリンスの壁画の女と共通する理念によるものです。


ともあれ、ここでは対象を面に分析し構成する表現と生命力とに注目したいですね。


このことはつぎの黄金マスクとも通じるのです。


黄金マスクは円形墓地Aから5個(第4墓から1個、第5墓から2個)が発見されました。


これらのマスクが屍に直接に付けられたかは断定しにくいです。


丸顔あり、長顔あり、また眼を開くもの、眼を閉じるものがしかしいずれも広い額は高貴です。


そして頬から顎にかけて美しいヒゲをつけたこの顔を、シュリーマンはミケネ城主アガメムノンと見ました。


古代美術の装飾

頭髪をたれ頬髭をもつ男はミケネ人でしかありません。


装飾帯の上下の枠は金と黒金との葉状文からなっています。


まことに城塞の主にふさわしい好みです。


象嵌の杯にはエレクトロン(金と銀の合金)製があります。


これは高杯であって、腹部の中央に金とニエロで水盤にいけたシダ状の植物が、ただ一つ紋章のように表わされています。


つぎに異例の杯をあげましょう。


それは獅子の頭部を写した祭祀用の杯です。


この杯はミケネ人の彫塑力をみるべきものでしょう。


クレタ人も獅子の頭部を石灰岩に写した杯を残しています。


その牝獅子の円滑な頭部にたいして、ミケネの牡獅子の頭部は簡潔な面に分析しています。


20センチから30センチ。


この大きさからは、わかりにくいですね。


いずれにせよ、そのなかには丸顔あり、四角い顔ありで、どれも同一ではありません。


個性的な特徴をしめしています。

ヴェルティメント(ザルツブルク・シンフォニー第1,2,3番)3

弦楽器だけのために書かれ、四重奏でも演奏できるというこれらの作品が、演奏技巧の上でもそれほど高度なものが要求されていないということもあって、アマチュアの人びとからも好まれているのは、当然の結果かも知れない。
なかでも、二長調の作品は、その明快さや美しい響きからかとくに広く親しまれている。

それは、《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》と双壁をなすものといってもよいかも知れない。

レコーディングにおいてさえ、このこ長調の作品だけを単独で選んでいるものが少なくないということは、それを立証するものといってもよいであろう。
一方、演奏の規模も四重奏からかなり編成の大きい弦楽合奏までいろいろあって、選択の規準をどこに置くかで、それはかなり異なった結果を生ずることにもなりそうである。

一般的には、イ・ムジチの演奏などが好まれているようであるが、アマデウス弦楽四重奏団の演奏や、また華麗な面ももったカラヤンのアプローチなどにも、捨て難い魅力があるのは事実であろう。

アイデンティティとコミュニケーション

今日は、価値観がその人の日常的なビへービアとして現れる領域の問題点について。


たとえば、ストレス解消法をふくむ「アイデンティティ」のポイント。


要するに「自分をいかなる存在として確認するとき、安定感を取り戻すか」ということ。


そして「コミュニケーション」の状況。


・・・これは、いってみれば「自分をいかなる存在として、他人に認めてほしいか」ということです。


アイデンティティとコミュニケーションという2つには、内的な関連もあると思います。


たとえば、ふつう「ストレス解消法」といわれているもの。


私の流儀でいえば、仕事が忙しすぎたり、困難にぶつかったりして、本来の「自分を見失った」ようなとき、「本来の自分を取り戻す」ための手順、あるいは儀式なのですが…。


男性の上司に「あなたのストレス解消法は?」と質問した場合、返ってくる答えはほとんど見当がつきます。


「酒」と「ゴルフ」が上位に来るほか、「ジョギング・釣り・庭いじり」などの戸外派、「囲碁・書道・コレクション」などの室内派、その他、多種多様ではありますが、ほぼわかりやすい答えが予想されます。


これまでにも各種のアンケート調査が行われ、だいたい納得できる結果が出ています。


ところで、女性の上司に同じ質問をしてみたら、どうでしょうか。


アンケート調査の例もほとんどないのですが、まず、返ってくる答えの見当がつきません。河成鎮次氏によると、しいて予想すれば、「さあ、特別のストレス解消法は、ないですね」といったホンネかくしの答えでしょうか。


この対比のなかで、2つの問題に注目すべきです。


一つは、派遣 千葉などで働く女性、とくに女性管理職は相当に強いストレスを感じているはずであり、何らかの「ストレス解消法」を持っていないとは思えない、という点です。


もう一つは、これまでの「ストレス解消法」論議が、男性の場合に偏りすぎていたのではないか、という点です。

学習熱が流行る世の中

社会的習慣のようなものの復元力、自己保存力といったものは、想像以上に強力です。


しかし、その予感はともかく、いま現在は、多くの企業の中でこの昇進の構造が現実にゆさぶられ、その解体の予感がサラリーマンの多くの部分の強い不安をかきたてつつあることは確かです。


私は会社が終わってからコンピューター学院にかよい、帰りの電車の中で練習問題を解いているようなサラリーマンたちの姿を少し冷たい眼で描きだしました。


彼らの学習への熱中を支えているのは、この内側からつきあげてくる不安であることはまちがいありません。


学習は、「変動の時代をのりきる」ためであるのか、それとも学習にうちこむことによって不安を忘れるためなのか、その境目は不分明です。


・・・事実、計算機を使うOpenSSO的な熟練は、数多く計算機を使いこなして仕事をする経験の中からしか生まれません。


そして計算機を「使う」立場の人間ははじめから限られているのです。


それでも学習熱は続きます。

ヴェルティメント(ザルツブルク・シンフォニー第1,2,3番)2

なかでは最もユニークな存在となっている変ロ長調K一三七は、アンダンテ、アレグロ・ディ・モルト、アレグロ・アッサイというようにテンポをだんだん速めてゆく構成をとっているぼかりでなく、三つの楽章がすべて同じ調性によっているという点がめずらしい。

そのために、楽章の位置を交換して、なんらかの形で普遍的な形式に近づけようとする試みもこれまでになかったわけではないが、昨今は、原曲のままに演奏されているのがほとんどである。

しかし、いずれにしても、それらがハイドン兄弟からの影響も思わせるディヴェルティメントであることは事実なのであり、そうした問題にこだわることなく、ごく単純に楽しまれてよいジャンルにおかれていることはまちがいない。

ヴェルティメント(ザルツブルク・シンフォニー第1,2,3番)1

ハイドンやモーツァルトの初期にあっては、音楽の形式ジャンルの概念がかなり自由であったり、また曖昧であったりしたように思われる。

"ザルツブルク・シンフォニー"の呼び名でも知られているK=二六~八の三曲のディヴェルティメントは、その一端を物語るもののひとつといってもよいかも知れない。

1772年に作曲されたそれら三曲は、ペータース版の総譜では弦楽四重奏の形で明記されているが、弦楽五重奏でも弦楽合奏でも演奏されている。
構成的には、イタリアからの影響を思わせる三楽章形式のシンフォニアの形をとっており、とくに広く親しまれている二長調K一三六と最後のへ長調K一三八との二曲は、急ー緩ー急のイタリア風序曲との関連を思わせている。

有料のごみ袋について

以前、ごみの有料袋は、40リットル入りの大型ビニール袋が1枚60円、小型が2枚で同じく60円でしたね。


わたしの住む市は、これらの指定袋を使わないで出されたごみは収集しないことにしています。


こうして、袋代の中にごみ処理費の一部が含まれているわけです。


ちなみに1世帯で月10枚の大きな袋を買うとして、600円の負担となります。


しかし、ごみ処理費の大部分は住民が税金で負担しているとすれば、こうした間接負担の一部が、収集手数料という直接負担に切り換えられたことだけのことなのです。


したがって、もしもこうした直接負担で節約されることになる一般財源分を市民に何らかの方法で還元すれば、トータルな形では市民負担が600円新たに増大することになったというわけではありません。


いわんや、驚くべきごみ減量効果を勘定に入れれば、なおさらのことでしょう。


ただし、そうはいっても手数料制の導入には住民の反発は避けられないかもしれません。


このような場合には、自治体サイドが決定を行う前に、手数料制とごみ問題の関係をめぐる情報を提供して、住民に正しい認識を持ってもらい、そのうえで意見を求めるように努める必要があるでしょう。


住民は、事の本質や目的を理解するや、好反応を寄せるでしょう。


今の時代、リサイクルトナーのようにモノをリサイクルする気持ちが以前よりずっと強くなっているのですから。

セレナード第13番ト長調《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》3

ヴェーグの演奏は全く違うものである。
ここには、モーツァルトの音楽の持つ光輝き、活力、などが、決して《ハフナー》セレナーデや後期の協奏曲やシンフォニー群に劣らず内在しているのだということを、彼は鮮やかに証明してみせる。

それによって、"愛らしいセレナーデ"という通念を吹きとぼして、みごとな弦楽のシンフォニーとしての素顔を取り出すことに成功したのだが、そのためには、従来の大オーケストラがやってきた十九世紀のフレージングでなく、すべての音の表現法を含めて十八世紀のスタイルに直している。それによってセンチメンタルさが消え、きびきびとした"モーツァルトの音"がよみがえったのである。

これに比べると、旧来のオーケストラの演奏はサッカリンのように見えてくるし、古楽器はチームの新しい努力を多とするものの、"偉大なる芸術の再創造としての演奏"ではヴェーグに及ぼない。

セレナード第13番ト長調《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》2

曲は《ドン・ジョヴァンニ》と並行して書かれたとは思えないほど姿が優しく、イージーリスニング向きにできている。
暗い影がほんの少し横切るのは第二楽章の中間部だけで、あとは十八世紀の理想郷〃憂いのない〃世界で、すべては優雅でギャラントで、しかも高貴である。

さて録音の数は星の数ほどあり、中にはカプリングの都合で入れました、というような平凡なものもあり、その全部を聴くのは容易ではないので、お許し願いたいが、どれをすすめるかということになれば、まずは星の中でも最も巨大な星、シャンドール・ヴェーグとカメラータ・アカデミカの演奏に指を屈することになろう。

この演奏を聴けば、従来の演奏が、いかに耳に快い、イージーリスニング的な、愛らしい、魅力的な、といった形容詞の線だけに沿って行なわれてきたかがすぐにわかるであろう。